ザザイズム

都内某所に生息する大学生。2016年夏〜2017年冬にオランダに半年留学してました。日常で考えたことや留学記録、旅行記などつづっています。

文章が書けない病

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数日前、文章が書けない病になってしまいました。

書きたいもの、書かなきゃいけないもの、どちらもたくさんある。なのに、びっくりするくらい書けない。

2月下旬に記事更新が止まったのはこれが原因です。今現在もリハビリ中です。前はもっと一気に文章を書きあげられたのに。文章書くのに使う筋肉が一気に衰えた感覚。

書くことについて、考えてみたことを書き出していってみます。


「型」の効用

文章書くにあたって、強力なもの。
その一つが、「型」だと思ってます。


たとえば、論文やレポート。
私は大学でレポートを書く機会がしょっちゅうあります。そこで、基本的なレポートの型は意識して身に着けようとあれこれ試みてみました。
主なものだと、

  • 序論・本論・結論の構成
  • 見出し→小見出し→内容の構造
  • 結論・主張が先行、根拠・理由を後にもってくる

などなど。
こういった「型」を意識したら、レポート評価の授業なら、8割がたA評価を取れるようになりました。



たとえば、WEB記事。
よく、「いかがでしたか?」で締める記事を見ませんか。
私はあれ、いまいち苦手なのです。とってつけたように挟まれてくるこの文言。そういう記事に限って、記事の内容が薄い傾向にある気がする。なんでこんなにあちこちで使われているのか、長らく謎でした。

でも、ブログを書いてみて、使う気持ちがわかったような気持ちがします。
これも「型」なんですよね。

締めの書き始めって結構、まともに考えようとすると難しい。そこで、ああだこうだ考えずに「いかがでしたか?」と機械的に書き始める。すると、ぐっと書きやすくなる。
記事量産してなんぼ!なんて世界ならますます、効率的で便利でしょう。



「型」だけでは書けない

最近、今までに書いたことのないタイプの文章を書く機会がありました。
内容はじっくり考えた。内容のメモ書きのもある。構成も決まっている。


なら、書けるはずでした。


はずなのに、書けない。





見出しと、メモ書きと、次の見出しとの間がぽっかり空いていて、
その空白が埋まっていかない。


文字通り、絶句。





どうしたらいいのか、必死に考えました。
まず思い当たったのが、「型」がないこと。今まで書いたことのないタイプの文章だから、書けないんじゃないか。
というわけで参考になりそうな文章を読み漁って「型」を見出そうとしてみました。


でも、書けない。





言いたいことはある。でも、適当な言葉が出てこない。
どんなに頭をひねっても、ない。
空っぽの頭の中で、必死に宙をつかむような、そんな気分。





結局、私に足りないのは「型」じゃなかったんです。
むしろ、「型」はもう、十分だった。ザーッと流し見すれば、それらしい。


私になかったのは、ちゃんと自分の頭で「考える」ことだった。
「なんとなく」言いたいことはあったんです。
けど、「なんとなく」でしかなかった。



「なんとなく」を言語化する、
そこにつまづいていたのです。






そのためには、めちゃくちゃ泥臭い作業が必要なはずだった。


「なぜ?」をひたすら繰り返す。
答えと、その根拠をかき集めてくる。
これを繰り返して、「なんとなく」をつぶしていく。

つぶしたうえで、
かき集めたものをバッサリ切り捨てる。
大事なものだけ残す。
端的に、簡単に表現する。

「考える」
そのうえで、
書かなさすぎない、書きすぎない。

このバランスを取るのがとんでもなく難しくって。実際バランス崩れまくり。やっとできたと思って読み返すと、いたるところが書きすぎだったり、かと思えば飛躍していたり。その飛躍を埋めるためにまた考える。泥臭いことこの上ないのです。


同時並行で精神がガリッガリに削られていたのもあって、もう考えられない、言葉も出てこない、で、書けない病に陥った。
そんなところだろうと思うのです。




それでも書くべき理由

文章化、というのは一種のおまじないのような魔力がある。
そんなことを最初の記事で書きました。

zazaizm.hatenablog.com



どうして文章化には魔力があるのか。
この不思議、「思考の整理学」という本を読みました。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)


そしたら、すごくハッとさせられる節に出会いました。以下p.136より引用。

まだまだ書けないと思っているときでも、もう書けると、自分に言いきかす。とにかく書き出すと書くものはあるものだ。おもしろいのは、書いているうちに、頭の中に筋道が立ってくる。頭の中は立体的な世界になっているらしい。(中略)
書くのは線状である。一時にはひとつの線しか引くことができない。(中略)
裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。

「立体的な世界を線状のことばの上にのせる」、ということを私なりに考えてみました。

脳内の思考はニューロンネットワーク状、いわゆるマインドマップに示されるようなもの。あちらこちらで関連し合っていて複雑な構造をしているもの。
それを、線状とか、ツリー状とか、そう言われるものにする。大切なものを見極めたうえで、捨てる。これが文章化するってこと。
図にするとこういう違い*1
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言い換えるなら、文章化っていうのは「考えざるをえなくする魔法」でもあるんじゃないか。書かないと考えられない。考えられないと書けない。この悪循環を打破するには、「それでも考える」より、「それでも書く」ほうがいいんじゃないか。




特に私、「捨てる」「書きすぎない」のが苦手です。私は文章を膨らませる技術ばっかり磨いてきました。どうも、「膨らませる=良いこと」のような錯覚を抱いていたようです。大学のレポートを書くたび、「あと◯字埋めなきゃ」なんて思いに駆られてたせいかもしれません。書くのは何も、字数を増やすことだけを言うんじゃない。




文章書けない病は相変わらずだけども、
書けなくても書くこと。それから、「考える」こと。
もうちょっと、そこからやり直してみます。

今日はこのくらい。

*1:この図は新版 論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス No.1194)にも着想を得ています。またそのうちしっかり紹介したい。