ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

「等身大」の価値を思う。――『「その人にしか書けないこと」が読めるのがブログであって欲しい』を読んで思ったこと

「その人にしか書けないこと」が読めるのがブログであって欲しい: 不倒城』という記事を読みました。


mubou.seesaa.net



読んでて、全力で同意してました。
最近ぼんやりとだけ考えてたことがそのまま言語化されたような感覚。

もはやこの話題は書き尽くされてて、「私にしか書けないこと」なんてないかもしれないけど。
脳裏に浮かぶことをそのまま書きつけてみる。









以前、「コミュ障こそ営業に向いている」という主張を見ました。
出典はNAVERまとめで、ここで持ってくるのもなんだか違う気もするけど、内容自体はなるほどと思ったので引用(元記事リンク切れ)。

ざくっと中身を言うと。

これまで「外交的、体育会系、明るい、話し上手」が営業向きと考えられてきた。
けど、そういった人はもはや「騙されるんじゃないか」「口先だけじゃないか」という警戒心を抱かせてしまう。
これからは、ちょっと口下手でも、誠実で相手のことを深く考えられる「コミュ障」こそが営業向き。


なるほど、私が営業される側を想像したら確かに同意できるなと。

例えば、服屋。
押しの強い人店員がいたら早々と立ち去りなくなってしまう。
それより、こっちが質問した時だけ答えてくれる人のほうがいい。

例えば、物件選び。
「この物件いいですよ~」とニコニコと良いところばかり言われるとかえって不安になった。
ちょっと淡々と紹介してくれる不動産屋さんのすすめたところは、そこはかとなく信頼できる気がした。


私の性格との相性の話なのかもしれない。けど、周りを見てもなんとなく、私と似たようなことは起きているっぽい。








で、なんでこの話出したかというと、
コミュ障営業の価値と、
「その人にしか書けない」 ってことの価値と通じるものがあるんじゃないかと。




たとえば、
ニコニコと綺麗な写真で埋め尽くした記事とか、
炎上とか、
「まだ知らないの?」「今さら聞けない!」「必見!」「◯◯じゃダメ!」「衝撃の事実!」「えっ……ホント?」って煽り文とか、

そういうのに通底する
「顔が見えない」感覚。

これ、全方位同じ笑顔でニコニコとした営業マンが口達者に迫ってくる状況に似てませんか。
それは誰だって逃げ出したくなりませんか。




コミュ障営業というのを想像すると、たぶんニコニコ営業マンよりは「顔が見える」感じがするんじゃないか。
そういった「顔が見える」感覚って、相当に重要な気がする。






「等身大」の価値

どっかで見たようなコピペが大量に氾濫するくらいなら、何の変哲もない日記記事の方が遥かに面白い、と、少なくとも私は思います。日記は、少なくとも、「その人にしか書けないコンテンツ」ではある。誰かと同じ一日が、他の誰かに全く同じように起こる訳ではない。「その人にしか書けない」という時点で、そのコンテンツには十分な価値がある、と私は思うんです。
「その人にしか書けないこと」が読めるのがブログであって欲しい: 不倒城

まさにこの通りだなと思う。



思うに、
書きたいことを書きたいまま書く。
そうやって「等身大」でいたら、
結果として、いつの間にか、「その人にしか書けない」ものができあがる。



そういうもんじゃないかなあと思う。









「等身大」の価値って、たぶんずっと言われてきていること。

Google検索が「リアル」じゃないからInstagramに移動したって話を思い出す。
www.huffingtonpost.jp
でも、当のインスタだって「ステマ」が入り込んできてるそうだし、

「リアル」を売りにして人を集めて、
そこに、何が別の意図とか作為が入り込んで、
「リアルっぽいリアルじゃないもの」に埋め尽くされていって、
また新たな場所で「リアル」を作って、
また別物が入り込んで……

そういういたちごっこって、これからもずーっと続いてくんじゃないかなと思う。







このいたちごっこはきっとどうしようもないもので、
多分根本的な解決法なんてない。



もし消極的であれ、何かできることがあるとしたら、


「等身大」なものに対して、
「面白い」とか、「すごくわかる」とか、「そういうの好き」とか、そういった感情を抱いたら
素直にちゃんと表明する。


そのくらいな気もする。
でも、「そのくらい」にしては重要なもののようにも思う。






とってもザルな話になってしまったけど、
今日はこのくらい。