ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

どんな応援も届かない受験生の私を救った、たった1つの気づき

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2月。大学受験シーズンもいよいよ深まり出す頃合いです。

 
「頑張れ」
とか
「きっと大丈夫だよ」
とか、いろんな励ましのことばが飛び交っている頃合いなのでしょう。
 
でも、そんなことばが心まで全く届かないことだってあります。
 

 

3年前の私がそうでした。大学受験の本番を目前にして、
私はひどく病んでいました。どんな励ましのことばも効かないくらいに。
 
 
 
 
 
 
私は大学受験をするにあたって、塾には通いませんでした。独学で乗り切りました。
金銭的問題というよりは、塾の必要性がどうしても感じられなかった、もっといえば優柔不断すぎて自然と入塾を見送ってしまったのです。
 
それでも、なんとかそれなりの成果は上げていました。模試も周りに見せればお前は大丈夫やろと言われるくらいには。
 
 
 
 

猛烈な焦り

時は2月。本番はもう目前。
私は猛烈に焦っていました。過去問が終わらなさすぎて。
 
 
 
私の受ける大学は、かなり昔の過去問の類題がたまに復活することがありました。合格者体験記なんかを見ても、最低10年分、できればもっと過去問をやっておくべき、といった声がありました。
 
私も、例によって20年分くらいはやろうと計画していたのです。
 
 
 
 
ですが、終わらない。
10年分すら終わるか怪しい。
 
他の受験生がやっていて、そして私はやっていなかった範囲出てきたらどんなにか差をつけられることか、と不安で不安で、
なぜもっと早く手を付けられなかったのだろうと後悔する日々。
独学だから、全面的に自己責任という感覚も手伝ってか、日々自己嫌悪を重ねていました。
 
 
 
 
 

自己否定のループ

脳裏にはいろんな時が浮かんでいました。
集中できずぼんやりした日は数知れず。休憩をだらだら取ってそのまま夜になった日。
 
頑張ったとしても、目に入るのは私よりさらに頑張っている人。その繰り返し。
 
 
私はなんてなまけものなんだ、だめ人間なんだ、
とひたすら自分を責めていました。
夕ご飯中に突然涙が出ることも。
 
 
友人や親から、励ましの言葉もありました。
「十分よく頑張ってる」
「お前が受からなかったら誰も受からん」
 
 
それでも「いや、自分は全然ダメだ」と自分を責め続けていました。
なんとか過去問と参考書の山に立ち向かって、でもまた絶望して、また自己全否定をして……
潰れそうな日々を送りました。
 
 
 
 
 
 

「自分が何人かいてもいい」

でも、試験の数日前、ふとあることに気づいたのです。
 
頑張った自分も、なまけものの自分も、両方自分だってこと。
 
 
「なまけた自分」も自分だけど、
「頑張った自分」もまた確かに自分なわけで。
 
どっちも、自分。
どっちかだけが、じゃない。
自分が何人かいてもいいんだ、と。
 
少しなまけたのを理由にして、「頑張った自分」という、確かに存在する事実を全否定しにかかるのは違う、と。
 
 
 
 
だから、
自分は頑張っていたといえるのか?それとも、なまけていたのか?
その二択に縛られるのはもうやめようと。
 
そのことに気づいてから、不思議と楽になりました。
 
ただやれることを精一杯やろう、あとは本来の力出せるように体調整えておこう、それだけ考えられるようになりました。
 
 
 
 
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「だめな自分も自分だが、
がんばった自分も自分。
どっちも、自分。
どっちかが、じゃない」
これが試験本番の前日、手帳に書いた言葉そのままの表現です。
字が汚すぎて恥ずかしいけど。
 
 
 
 
今思えば全く当たり前なことに見えるかもしれません。
 
でも、そんな当たり前のことも渦中にいる自分はなかなか気づけなかった。
だからこそあえて書こうと思い立ちました。
 
誰かの気づきになれれば幸いです。