ザザイズム

都内某所に生息するSE5年目。2016年夏〜2017年冬にオランダに半年留学してました。日常で考えたことや旅行記などつづっています。

旅の脳内OS、灰色の脳内OS


幸せを感じる筋力が衰えている。

桃7個とメロンと野菜をそれなりに買って1500円にしかならない、良心的きわまりない八百屋がある。手がべたつくしっかり甘い桃とメロン。おいしい。果物の旬なんて1年に1回しかないのだからと買って正解だった。
暑い夏の日に自転車でわざわざ買いに行って。熱中症になるかというくらい暑くて、実際当日翌日はひどいぐったり感に襲われた。それでもその価値はあった。

そういう幸せが持続しない。


仕事はなかなかしんどい。試験勉強もしていて、それらの不安が生活の全体をうっすらと覆っている。試験日と歯列矯正の抜歯と仕事繁忙期が重なりあっているのだから。そりゃ不安でならない。

ロボット掃除機と食洗機と全自動洗濯乾燥機が揃い。電気圧力鍋や電動昇降デスクも活躍してくれて。アロマオイルやお香も焚けて。スマートスピーカーと声でライトや換気扇を操作して。
便利をひたすら積み上げまくったのに、あっという間に慣れてしまい、浮いた時間をむしろ今ここにあろうがあるまいが関係ない不安に使っているような感覚がする。




今度沖縄へ結婚式参列しに行く。以前の私ならここぞとばかり前後に何するかを調べ上げていただろうに、まだ先とは言え、ほぼ何も見えていない。でも、久しぶりに航空券を取るときの緊張感を味わえた。これで本当に合っているのか?時間は最適か?と考え込みながらえいやと購入ボタンをクリックするときの感触。購入エラーが出ないように祈る瞬間。購入完了画面が出た時の安堵と、これで決まってしまった、さてどうしよう、と思い巡らす時間。今回は旅行ではないから日程も旅程も選択肢はそう多くなくてある意味楽ではあったけれど、そんな小さい枠の中でさえ逡巡した。これが10日間の海外旅行とかだとどうしてたんだろう?ましてや40日間なんて、いったいどうやって決めてたんだろう?と不思議になってしまう。

過去の海外旅行の写真を見ると、ほんとうにこれを旅したのが私と同じ人物だったのだろうか?と不思議に思うことがある。半年留学とか、40日間中南米とか、9日間北海道ツーリングとか、なんでできたんだろう、と思う。
留学中や旅行中は脳のOSが別物に切り替わっていたような気がしている。

それは昔から自覚していたことだけれど。旅のOSに切り替わる期間も頻度も減ってから、よけいそう感じる。

旅行中なら午前中部屋にこもってゆっくりしてしまってもまぁ午後があるじゃん、1日は意外と長いよね、という気分になれたのに、
今は午前中ごろごろしてしまうと急に罪悪感わいてかえって午後の足取りが重くなるくらいになってしまうってこと。
どうしてこうなったんだろう。旅先と日本と、人が変わってしまうような、旅するたびにそういう気分になる。空白を「まだある」って思うか、「もうない」って思うか。そういう考え方のOSが切り替わってしまうような感覚。

大学生でいられるのもあと半年な夜に思うこと。 - ザザイズム



旅の脳内OSのほうが確実に幸福度が高かった。べつに旅が楽しいからというわけじゃなくて、自分が自分で決めて、自分の足で違う世界に来られたという事実が一分一秒すべての瞬間に満ちていることが幸せだったのだろう。極論いえば旅を決行、いや、計画した段階でもう達成されている、そんな事実が何よりも自己肯定感を上げてくれたのだと思う。

旅の脳内OSに代わるものはなかろうか、という悩みを引きずったまま今日まで来ている。いや、正確に言えばもうこの日常を色のないものとみなす脳内OSが板につきすぎてしまって、悩んですらいない。ただ、漠然と、今日も少しマシな一日にならないかなあと時折思いつきで文章を書いたり掃除したりVRをしたり果物を買ったりしているのである。一応、自分で決めて、自分の足でなんとか違う一日を作ろうとしている。でも、ベースがそんなだから幸福というよりマシな時間レベルでしか捉えられず、目を閉じて開ければまた元通りの色のない一日が始まる。2020年代はずっとそんなことを繰り返しているように思う。

そんなほんの少しマシを重ねた先に、旅の脳内OSに代わる何かがあるとも思えないのである。何かすべてをひっくり返して旅に出てしまいたいという悩み未満のぼやきはこういう思考回路の果てにあるように思う。お金の問題でも時間の問題でも社会的体面の問題でもない。何より先にこころの縛りループから抜け出せない無力感の問題なのだと思う。


今日はこのくらい。









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