ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

「所与のもの」に対する無力感と、日本出たい願望

新型コロナウイルスが猛威を奮っている。マスクは一気に品薄になる一方で、斜め前の席の人がマスクもなしにゴホゴホしている。
公式な情報を信用しきれない。そこらの人の煽りツイートよりは信用できたとしても、自分の目で見えないことには結局確信を持てない。潜伏期間が長いだけあって、今まさに都内にウイルスがいないはずがない。でも、少なくとも本格的な爆発が起こるまではギリギリ社会は回ろうとするんだろう。ウイルスが持ち込まれるかどうか、それが接触するかどうか。それは手洗いとかマスクとか最低限の予防をしてもゼロにはできない。結局「所与のもの」である。自分にはどうにもできない。

この感覚、東日本大震災と原発事故の頃を思い出す。


家の近所はいわゆる「ホットスポット」になった。わかりやすい大騒ぎ、というよりは、皮一枚隔てた地面の下から何かが黒くふつふつと沸騰しているような感覚だった。メディアは信用できないという声。高価なガイガーカウンターを持って走り回る人たち。その数字が結局どのくらいの意味を持って、どのくらい具体的な影響があるのかもぼやける日々。

知った所で逃げられるわけはないし、逃げるほど足元の沸騰は噴火として目に見えるわけではない。Twitterでは、小さな子どもと西日本に逃げた話が散見された。あまり見ていると余計落ち込むだけで、どうせ私にできることはない。そう思ってあまり見ないよう心がけても、時々見てしまった。通っていた高校では放射線問題に関心の高い先生がいて、新聞記事の話をよくされた。校舎もガイガーカウンターで測られた。雨どいや裏庭の線量が高いと言われ、除染の黒い袋が隅っこに転がっていた。当時、「逃げたい」と輪郭のある気持ちを持っていたわけではない。誰かにそんな思いを話したこともないし、Twitterにも、日記にも、何も書いた記憶がない。おそらくそういう気持ちを持ったとしてもどうしようもなかった。高校生の私は無力の塊だった。

震災の年だったか、次の年だったか。母がタケノコを茹でていた。毎年の恒例行事、地元で採れたタケノコのおすそ分け。母は「まぁ大丈夫でしょ。心配してもどうにもならないもの」と言った。何が大丈夫なのか。具体的な主語は覚えていない。むしろ、あえて記憶から落とすように仕向けていたのかもしれない。毎年恒例のタケノコ煮を前に、微妙な感情を抱いたことだけは覚えている。それでも食べざるを得なかった。タケノコは私にとっていわば「所与のもの」の塊だった。

この無力感は長く心に巣食っていたらしい。数年後、大学生になる頃にはだいぶ騒ぎは沈静化しつつあった。今となっては線量看板もオンライン化され、存在感は薄くなった。それでも、大学生になって一人暮らしを始めた時「ああ、あの地を出られるんだ」という思いがどこかにあった。


あの時の空虚な無力感に近いものを、新型肺炎のニュースを見ながら感じている。





日本から逃げたくなることがたまにある。こういうどす黒い空虚な無力感を覚えた時。例えば、夫婦別姓さえも実現できない国の将来に何を期待したらいいんだろう、と思った時。とはいえ海外生活がいかに大変かというのもわかる。留学でその一端をチラ見している。実現までの現実感もまるでない。妄想的な現実逃避願望。でももし私が今のスキルの方向性を上手く発展させられたら、場所によれば海外でも生きていける可能性はゼロではないかもしれない。アメリカとは言わずとも、探せばあるかもしれない。彼氏さんがいなかったら過激にこの方向性を突き進んでいたかもしれない。逆に言えばその程度の願望かもしれない。本当にやりたかったら有無を言わさずやることだろうから。でも、さらに言えば、ここまで無理だろと思いつつ心に引っかかるのもそれなりに意味があるのかもしれない。それは高校生あたりの「所与のもの」としてやってきたあの足元の皮一枚隔てた黒いものへの感情と似ているのかもしれない。

ちょっと話が逸れてきてしまったけど。
最悪、日本の外でも生きていけるような人になったほうがいいんだろう。そのくらいになれば、日本でも生きやすくなるかもしれないし。そういう価値は自分にはあるだろうか。



そんなちょっと暗い話。

今日はこのくらい。




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