ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

「わざと不快になりにいく」という快楽

SNSをやめてから、ネット上のネガティブな情報に敏感になった。

SNSついでに見るのをやめたニュースサイトを少しぶりに覗いたとき。サムネイルが森会長で埋め尽くされていた。ちょうど失言問題のころ。

反射的に気分が悪くなった。ただニュースを知るだけならまだしも、こんな何個も何個も埋め尽くすまでに追い回して、何が良いんだろうと。さらに時を経た今。ふたたび、ネット上に転がる「不快」に慣れてしまった。あぁ、いつも通りの不快なニュースだなぁ、中を見てもやっぱり不快だな、そんなループをする時間が少しずつ増えてしまった。

なぜ、こんなにネットには「不快」が転がっているのだろう。良い情報も並んでいると思うから?じゃあなんで見出しを見て目をつぶるでもなく、見に行ってしまうんだろう。果てはみんな寄ってたかってコメントまでするんだろう。


思うに、「わざと不快になりにいく」というのはある意味、快楽なのだろうと思う。

なぜこんな矛盾した行動をしてしまうのか、ちょっと理由を考えてみた。




「わざと不快になりにいく」のが快楽になるわけ

嫌なものこそ生存に必要だから

人は基本的にポジティブなことよりネガティブなことへの感度が高い。そうでもしないと生き残れなかったのだろう。太古の時代、何もしなくても幸福感が次々湧いてくるような楽観的な人間がいても、あっという間に敵に喰われてしまっただろう。常に「あそこに猛獣がいるかもしれない」と危機感を沸かせてきた人間こそが私たちの先祖のはず。

恐怖本能をつつかれると、どうしても張り付きたくなってしまう。私にも心当たりがある。去年の1月末頃は、武漢の動画をつぎつぎ漁っては恐怖を煽り立てられた。1ヶ月ほど前は、インドネシアの航空機墜落のニュースを追い回していた。幸せなニュースにはそこまで執着をもって張り付くことはできない。

話題になった本「ファクトフルネス」でも同じような指摘があった。

メディアはメディアで、わたしたちの恐怖本能を利用せざるを得ない。恐怖本能を刺激することで、あまりにもたやすく、わたしたちの関心を引くことができるからだ。
(略)
わたしたちの先祖の命を救ってくれた恐怖本能は、いまやジャーナリストたちの雇用を支えている。

人を張り付かせるかっこうの方法は、次から次へと多種多様なネガティブ情報を供給することになってしまう。人の気を惹くことで生きながらえるサービスがたくさんある中、このかっこうの方法を防ぐインセンティブはない。こうしてネガティブな情報がますます目立っていく。

本能は本能で、生存にこそ必要だと思える情報に満たされる。それはある種の快楽を生むのだと思う。それが本当に嫌と感じるのなら生き残れなかったのだから。



良いものと違って嫌なものの質は安定しているから

ネガティブなニュースは「こういう情報だろう」という期待と、その答え合わせの確度がとても高い。嫌なニュースかどうかはだいたい見出しでわかる。内容を読めば「予想通り」に不快になれる。

良いニュースはまず数が少ない。その上、ひねりがきいた「ちょっと良い話」的なものが多い。それはネガティブなニュースのようにストレートな内容を書くだけではつまらないものになりがちだからだろう。ふつうの良いニュースの「つまらなさ」はこのファクトフルネスの例がわかりやすい。

たとえば、以下のような見出しのニュース記事を書こうものなら、すぐにボツにされるだろう。
「マラリアの感染数、依然として減少」
「今日のロンドンの穏やかな天気を、気象学者がきのう正確に予測」

「たぶんポジティブでしょうクイズ」より「間違いなくネガティブでしょうクイズ」のほうが当たりやすいし、供給も多い。「予想→当たり」のスパイラルを高速で繰り返せてしまう。予想通りの不快というお決まりのパターンへの安堵を何度でも感じ続けられる。「自分の予想が当たっていてほしい」という、ある種の承認欲求を満たせる。



自分たちこそ正義だと思える安心感

不快な感情というのは共感しやすい。幸せであることで共感するよりもずっと簡単だ。

そして、共感は一体感を生みやすい。みんなで一致して何かを不快だと叫んだり叩いたりするのは見慣れた光景だ。けれども、みんなで一致して幸せを讃えて浮かれ合う場面はなかなか見ない。「推し活」とか、限られた文脈になる。

何かに対して不快になるということ、それに対して怒る行為。それは劇薬だと思う。一体感でさみしさは吹き飛び、自分こそ正しいと思えるがために承認欲求まで満たされるのだから。



戦うべき不快もあるけれど

一方で、不快を何もかも見てみぬふり、というのもそれで良くないだろう。世の中の悪いところが全て放置されかねないから。例えば差別の歴史を振り返っても、改善されるまでには声を上げるなりの何らかの行動があった。

でも、そうやって声を上げるべき不快というのは限られているように思う。90%くらいは「わざと不快になりにいく」という快楽に費やされているように思う。10%くらいは意味のある不快だろう。何かしらの意味のある行動に結びつくもの。例えばコロナ初期のニュースを見て最低限のマスクを買いにいくといった小さな行動から、抗議の声を上げたり、何か訴訟に持っていったりする行動まで。

90%のエネルギーはその10%の解消すべきことと、そして自分を幸せにするための本当の「快」のために使うべきなのだろうと思う。



まずは気づくことから

ネガティブな情報に惹きつけられる本能をなくすことはできない。だから、せめて気付けるようにしたい。

「あっ、自分は今、わざと不快になりにいこうとしたな」と、気づけて、自分に対してツッコみを入れられるようになりたい。それだけでもだいぶましになる。そもそも自分が不快になっていることさえ気が付かないこともザラにあるから。

そして、気づいた後にできた時間は、本当に幸せと思えることか、不快を解消できる行動のために使っていきたい。

そう思う今日このごろです。



今日はこのくらい。










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