ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

わたしはなんだかんだで運が良い

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わたしはなんだかんだで運が良い、と思えるようになった。ラッキーな出来事が特別多かったわけではない。とくに意味のない思い込みに近いもの。
それでもこの変化は、ささやかながらも天変地異のようなこと。



私は基本的にネガティブな人間。
そのお墨付きぶりといったら、「ざざいずみを見ているとこんなネガティブなひとがいるんだって逆に元気をもらえる」と言われたこともあるくらい。

少し前まで、どんなにポジティブで嬉しいことがあっても、「でも、こういうネガティブな面もあるから完璧には喜べないな……」とつい思ってしまうくせがあった。部活でも行事でもなんでも。何かをうまく成し遂げたよね、よかったね達成したねおめでたいね、という具合になっても。

たしかに嬉しくて喜んでいても、心の片隅に妙に冷めた自分がいることがしばしばあった。ネガティブなことが起きたらもちろん、全力でネガティブモードになってしまうよりほかなかった。




それが、ここ半年とか1年くらいでぐっと和らいだような気がする。

この1年に起きたネガティブなことはたくさんある。
留学先でスランプ起こしたし
最後の授業でも盛大にコケたし、
就活で地獄に嵌ったし。
挙げようとすればいくらでも挙げられる。

だけど、以前と逆に、「でも、こういうポジティブな面もあるじゃん」と思える回数が増えてきた。不幸中の幸いに自然と目が向くようになった。

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この変化はいったいどうしたことだろう。




「受援力」の強化

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なによりも大きいのは、「まわりの人が親切だった」ことだと思う。
その前に、「まわりの人に頼りまくるようになった」、つまり受援力をフルスロットルで発揮したことがあると思う。

留学スランプでも就活地獄でも、わたしがヘルプ求めた人はみんな親切だった。冷静なアドバイスをもらうことも、ただ愚痴を聞いてもらうことも、何にしても。
今までは自分ひとりでも、グーグル先生や本なんかに聞けばなんとかなるトラブルが多かったけど、ここ1年に関しては完全に自分のキャパを超える出来事が多すぎた。

それがかえってよかったんじゃないかと思う。大変なことを自分だけで切り抜けようとすると、「結果がどうだったか」という点ばかりに意識が向く。逆に人に助けられて支えられてなんとか大変なことを収束させられたら、結果はどうあれ「あんなに助けられたわたしは幸せものだ」という方向に意識が向く。



人にヘルプを求めることは、そんなふうに結果の良し悪しの評価で自己批判と自己嫌悪をはじめる悪癖を飛ばして、意識を「感謝」に向けてくれるように思う。




書くことの効果

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脳内がこんがらがったときは「書く」くせがついた。

何すればいいのかわからずもやもやするときは文章の出番。夜にひとり憂鬱で耐えられなくなって涙が出て寝られないような重症のときは間違いなく文章の出番。Diaroとかに、タイプミスも気にせずひたすら気持ちを一直線に書きなぐる。人に見せない前提で、何もかもを書きなぐる。



面白いのが、だいたいの場合、いつの間にか一定のパターンに沿って書いていること。

症状が軽ければ1000文字くらい、重症なら5000文字くらいで愚痴を書きなぐるのをやめだす。そして、「良いことだってある。」と、不幸中の幸い探しをはじめる。たまに「コラム法」*1や「今日あった3つの良いことを書き出す」というメソッドも使う。

それで気がほっとしたら、「明日はどうしよう」という具体的な行動を考え出す。時には箇条書きでタスクを列挙する。友人に相談する、部屋を掃除する、自転車で散歩する、久しく行ってないお気に入りのお店に行く……。気力が残っていたらTodoistに入れてTodo化してしまう。書き疲れて寝て起きると、少しだけ精神的な活力が戻っている。


そんなパターンをこの1年で何回も繰り返してきた。




「紙とペンは思考のエネルギー」といった趣旨のことを以前書いたけれど、もうそれを通り越して「紙とペンは第2の脳」と言ってもいいんじゃないか。



この1年くらいで何回か、思考が停止して霞み、世界から色が消えたような感覚になった。そうなったらもう自分の脳なんて使いものにならない。紙とペンと手に頼って考えるしかない。キーボードと手でもいい。そうやってなんとか色の消えた世界を立て直す道筋を無理やり見つけてきた。以前なら思考停止したままネガティブの沼にずぶずぶ浸かって戻ってこれなかったはず。それ思えば、だいぶましになったと思う。




根拠があるけど根拠のない思い込み

旅の話を友人にしたとき。
宿難民になりかけたり、国境超えで謎トラブルに巻き込まれかけたり。そんな話に対して言われたのが「つくづく強運だよね」。下手したら拐われて命の保証もないようなトラブルに発展する可能性もゼロじゃないような状況で、たまたま親切な人に恵まれてなんとかなった。そんなことがこの夏の旅で何回もあった。

そのことばを発端に、ここ1年くらいのトラブルとその収束を思い返して「ああ、わたしって運が良いといってもいいのかもしれない」と思うようになった。



「運の良さ」の論理的な根拠としては弱いでしょう。かつてのわたしなら「そもそもトラブルに巻き込まれてる時点で運がないじゃん」とツッコミたくなるでしょう。


でも、根拠なんかなくったって「運が良い」と思うほうが、ずっといい。そう思う。


根拠がないってことは、純粋な思い込みゆえに、現実にどうあれ関係ないという意味で強いから。「運が良い」と思うこと自体に何も損することはない、得することしかないと思うから。



そんなこんなで

11月です。誕生月です。
「誕生月は魔の月」というジンクスがわたしの中に勝手にあります。だいたい毎年何かしらろくでもないことに見舞われているから。


これからはそれを逃れられると願いたい。
自分は運が良いと信じたい。




そんなことを思うのでした。

今日はこのくらい。


◯今日の過去記事◯
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*1:認知行動療法の一つ。物事を客観的に捉えて過度にネガティブに振れないように物事を書き出す方法。詳しくはこちらなど参照。心のスキルアップトレーニング「認知行動療法」を知ろう! 第3回 認知行動療法でしなやかな考えを身につける - 医療総合QLife