期末レポート執筆中。
「以前こんなこと書いたよな」と過去のレポートを探し回って、
気づいたら過去のレポートをひたすら読み返してました。4年分斜め読み。10万字は間違いなくいってるであろう量。
「目の前のレポートからの現実逃避」では済ませられないくらい、いろんな発見があった。
成長している
1年生の頃書いたレポートはひどかった。予想はしていたけど、それを遥かに超えてた。
やたら長い文。
補足的情報という名の脱線。
論が二転三転する。肯定なのか否定なのか立場がわかりにくい。
結論が結論になってない。「考察した」と書いてても「考察の結果」が書いてない。
これが2年、3年と見ていくと変わってる。文章も、構成も。まだまだ突っ込みどころは尽きないけど、明らかにマシになってる。
その改善度合いに驚いた。想像してたよりもはっきりと改善されてきている。
ああ、とりあえず私も少しは成長できたのかもしれない、と思えた。
自分で自分をちょっとくらい褒めてもいいんじゃないか、という気持ちになれた。
そんな気持ちになれたのは久しぶり。
大学生活で何が成長した?って問われても、正直あまり胸張れない気でいた。
ひたすら楽器の練習しまくってた中高の吹奏楽部時代とか、
ひたすら勉強しまくってた受験生時代とか、
周りの頑張っている人たちとか、
比べてしまうと、どうしても自信がない。
でも、こうして見ると、私がぼんやりと想像していたよりも成長してくれてたんじゃないか。
たまにはそうやって自分を褒めないとやってられないんじゃないか。そう思えた。
そんなことで褒めてくれるのは自分自身以外にはいないだろうし。
フレームワークの有効性
2年前に書いたレポートを眺めてたら気づいた。
「この考察に使ってるフレームワーク、私が今書いてるレポートとそっくり」
ぜんぜん違う話なのに、論の整理の仕方が似ている。
前者にはあるのに、今書いているレポートにはない発想があった。
今回のレポートの大きなヒントになりそう。思わぬ収穫。
そして、私の使っていたフレームワークにも名前がついていたことも思い出した。
私が何度か勉強して、名前もわかるし、簡単な説明もできるのに、
実践してはいなかった。いや、ちゃんと理解はしていなかったんでしょう。「読める語彙」と「書ける・話せる語彙」に差があるのと同じこと。
過去に実践したことと、
過去に覚えた知識と、
今やってることと、
点と点とが線で一気に繋がったような気分がして、ハッとさせられた。
大学も4年目。それなりに勉強してきたはずなのに、知識があちらこちらへ飛んでいってしまっていような、そんなもやっと感がずっとあった。
それはこういう関連付けによる理解を怠ってきたせいなんじゃないか。
「材料」から書くか、「問い」から書くか
日本語で5000字くらいまでのレポートだと、「強引にまとめあげる」手段が有効だった。
「問い」をなんとなく立てて、
なんとなく参考になりそうな材料集める。
そこで材料に合わせて思い切り「問い」自体をひっくり返すことがあった。それもレポートをかなり書き進めた段階で。
最初の「問い」が雑で、それを良い方向に修正する……って場合ならまだ許容圏内かもしれない。
問題は、「問い」が固まっているのに「材料」ありきになってしまう場合。この「材料」どうしても使いたい、と欲張ると、どんどん「問い」の答えから外れていって論の筋が行方不明になる。
例えるなら、肉じゃが作るつもりなのにどうしてもきゅうりを使いたくなり、「きゅうりといえば味噌マヨディップだよね」ときゅうりと一緒に肉じゃがに入れ込んで台無しにしてしまう……そんなイメージ。
簡単なレポートなら「材料」に合わせてひっくり返してもいいのだけど、もっともっと長文になってくると話は別。
「問い」をしっかり固めてないと書けない。
ということは、「問い」を「材料」に合わせてあまり簡単にひっくり返せない。ある程度以上はひたすら「問い」に答えるための材料に注力しなきゃならない。
料理で考えたら当たり前。
肉もじゃがいもも手に入らなかったのなら、肉じゃが作りたくても手元の材料に合わせて別の料理作ったほうがいい。
でも、肉もじゃがいもも玉ねぎも手元にあって、あと他に加える材料は何か?って冷蔵庫開いたら人参ときゅうりが入ってたらどっちを選ぶ?たとえきゅうりがすぐ手に取れる位置にあって、人参が冷蔵庫の奥底に埋まってたとしても。答えは明らかでしょう。
「あさってのもの」の有用性
1年の頃は文章や構成こそひどかった。けれども、当時はいわゆる「セレンディピティ」が強かったように思う。
例えば資料として新聞記事を探し回っていたら、たまたま目当ての記事の隣に、考察の材料として最適な記事を見つけるとか。
目当ての本の隣にあった本をふと手に取ったらたまたま課題にぴったりな本だったとか。
明後日の方向から来たようなもの。
だから、「あさってのもの」と私は呼んでいた。
なぜだか学年上がるにつれてそういったことは減ってきたように思う。
その代わりか、今までにやってきたことと関連づけるのが好きになってきた。
単純に「やったことがあるから楽」というんじゃなくて、「あさってのもの」から関連付けると独自の視点を導きやすくなる。
すでに授業で取り上げた範囲内のことをより詳しく論じるのは意外と大変なことが多い。詳細知識戦になり、既存文献と被って、引用だらけになってしまう。かといってまったく新しい発想を出すのは難しい。
そこで「あさってのもの」を持ち込むと、詳細知識戦に持ち込まないでも組み合わせで独自色を十分出せるような気分になる。実際の評価は別として、書いている側としてすごく書きやすくなる。
……私が今書いてる期末レポートが苦しいのはまさにこれのせい。泥沼をどう抜け出すかで未だにうろついている。
蓄積の面白さ
こうやって1年の頃からのレポートを読み返せるのも、今まで書いてきたものをほぼ全部保存してきたおかげだし*1、試験形式としてテストよりもレポートのほうが断然多かったおかげ。
テスト形式だと提出して終わり。手元に答案は残らないし、返ってくるのは評定だけなのが普通。これがレポートという形式だと、良かれ悪かれすべてのものが平等に蓄積されていく。書くにあたって集めた電子資料も一緒に残る。
だいたい書いた直後は「またひどいものを書いてしまった」と読み返す気にはなれないものも多い。今読み返してもひどいものは多いけど、「ひどい」という事実自体が後になってこんなふうにやる気のもとになることもあるから人生わからない。
しかもデジタルデータで蓄積すると、後になっても取り出しやすい。WordやPDFの中身まで検索できるのは本当に便利。「過去にこんなこと書いた気がする」とか「過去に使ったこんな感じのキーワード入った資料をまた見直したい」とかそんなレベルでもだいたい引っ張り出してこられる。
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*1:初めて書いたレポートと1年夏に書いたものの2本だけデータをなくしてしまいました。今かけと言われてもめちゃくちゃ苦労するであろうテーマのもの。一番成長がハッキリ見えるだろうにとても残念。