ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

あえて”ダサい”が強みになる時。デザイン独学してきて気づいたこと。

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私の特技・趣味は「グラフィックデザイン」です。
といっても本職ではなくて、趣味の延長線上。ちょっとしたチラシやバナーなんかをそれっぽく作れるくらいの技術。


個人HP作成をきっかけに画像加工をはじめて、気づけばたまにちょっとしたデザイン任されるくらいになって、そのたびに「喜んでもらいたい」ってモチベーションでめいっぱいいろんな知識つけまわって、いろんなデザインを眺めまわって。そんなことを繰り返してた結果、「デザインの人」扱いされる機会が増えてきました。
大学時代してきたバイトも、本筋と別に「デザイン趣味です」ってところに食いつかれて採用に至ったようなところも大きい。


独学ではあるけれど、自己流なりに試行錯誤するのが楽しい。
「どんな人がターゲットか?」「ターゲットの人に目を留めてもらえるようなデザインはどんなイメージか?」「色は?写真は?イラストは?フォントは?」
そんなことを自己流にでも、仮にでも考えて没頭していられるのは楽しい。
うっかり時間かけて徹夜寸前なんてこともある。


そこまでいろいろと意識して作るわりに、
実際どのくらい効果があるのかも自分では把握していない。把握できない、といったほうが正しいかな。
やっていたことの性質上、「私の制作物のおかげで集客が◯%も向上した!」みたいな数値結果が見えないままでやってきました。

それでも、「相手はどんな人か?」を、妄想だとしても、考えて考えて、ただただ作り込む。誰かのためのような、自己満足のような、そんな形。







そうやって趣味なりにもいろいろとデザイン知識を学んできました。配色、レイアウト、フォント、文字詰め、挙げればキリがない。

要素の端は綺麗にかっちり揃える、
見出しがあればとりあえず余白を詰め、
文字装飾はさりげなく、
MSゴシック・創英角ポップ体なんてありえない。

そんなどこかでかじった知識をとりあえず頭ごなしに飲み込んで、
ひたすら振りかざして、
原則から外すときは「あえて」という意識がないとできなくなって、
街中の「気を使ってるけど使いきれてない手作りポスター」にダメ出ししたくなって。

文字詰めとか妙にこだわってた。
これをやるとぐっと「それっぽさ」が上がる気がする。

バイト先でポスター一本仕上げた帰り、ホームで電車を待っている間、反対側に見えてた電車広告の文字をいつの間にか脳内で文字詰めしようとしていたこともある。
ああ、ここの「っ」の前、詰めなきゃなー、カッコも細いほうが締まるよなー、って、無意識に考えていた。




そうやってパッと見それなりに「きれい」に整ったものは作れるようになった。つもり。


でも、ある時、そうやって自分のやってきたことに自信がなくなった。



「きれい」なだけのものなら、もうそこいら中いくらだって転がっている。
あえて少し「ダサい」「泥臭い」ものこそ、引っかかるんじゃないか。





以前、イベント告知用のチラシを作成していたとき見つけた記事。


levites.hatenablog.com

手書きのモノクロ。

旅行社のチラシなのに、旅行メニューがない。旅館の写真も、料理の写真もない。電話番号が小さい。地図が小さくて分かりにくい。


書いてあるのは「人」の話ばかり。
どんな人が働いていて、最近何があって、うっかりしたことがあって。




こちらなんてもっとすごい。

levites.hatenablog.com





これを見て、私が今まであれこれやってきたことはいったい何だったんだろう、
ほんとうに「受け手がどう思うか」を考えてやってきたことなんだろうか、と思った。

ダサいと形容するのは失礼だろうけど、でも、なんというのだろう。
「端を揃える」とか「字詰め」とか、「きれいじゃない」とか、そんなことを吹っ飛ばす何かがある。
カッコ付きの「ダサい」とでも言おうか。





「きれい」なデザインなんて、もうそこいら中にあふれている。
そこには「顔の見えない」ものばかりで、
だからこそ「顔の見える」手書きはよけいに目をひく。

それは顔写真載せてるとか載せてないとかそういう意味もあるけど、
もっと、感覚的な「顔」。


それはカフェの看板に黒板が使われることとか、
ときにはメニューのみならずそこに店員さんの日記が書かれているとか、
そういうことにも通じるんじゃないか。







ほんとうに突き詰めると、カッコつきの「ダサい」って難しい。
「きれい」なものはテンプレのようなものも存在するけど、「ダサい」にはない。

技術的に言っても、手書きってけっこう難しい。

私もちょいちょいこのブログで手書き絵を使ってますが、まぁ手間がかかる。
もとより絵は得意じゃない。デッサンの基礎とか何もない手癖でしかない。簡単なものでもすぐ参考画像をググってしまう。
何より字が下手くそで恥ずかしい。これで文字詰めうんぬん創英角ポップ体うんぬん言える資格あるのかってレベル。




それでも私が手書き絵使うのはなぜか。

ひとつには、単純にしっくり合う絵が見つかりっこない場合が多いから。

もうひとつには私もやっぱり「顔が見えていてほしい」と思っているから、なのかもしれない。


手書きだと、その文章の向こうに「人」がいるって感覚というか、そういうものが強められるような気がする。
単純に自分の顔写真を記事に添えてアップするのとはまた違うもの。







「顔が見える」という感覚、以前も書きました。

たとえば、ニコニコと綺麗な写真で埋め尽くした記事とか、炎上とか、「まだ知らないの?」「今さら聞けない!」「必見!」「◯◯じゃダメ!」「衝撃の事実!」「えっ……ホント?」って煽り文とか、

そういうのに通底する「顔が見えない」感覚。

これ、全方位同じ笑顔でニコニコとした営業マンが口達者に迫ってくる状況に似てませんか。
それは誰だって逃げ出したくなりませんか。
「等身大」の価値を思う。――『「その人にしか書けないこと」が読めるのがブログであって欲しい』を読んで思ったこと - ザザイズム


最近のMeryやWELQといったキュレーションサイト騒動にも似たような感覚があるのかもしれない。
著作権違反の問題もあるけど、
批判を見ていくと「元記事への敬意が足りない」とか「内容が薄い」とか、そういった感覚的な問題に行き着いているんじゃないか。

その根底には「顔の見えない」感覚に対する不信感があるんじゃないか。


顔出し本名で書くべきとか、
本人の主観や経験を書くべきとか、
そういう単純な問題じゃなくて。
文章とその内容の全体から伝わってくる、「顔」、それが見えない。


しかも「顔見せてるよ」っていうフレンドリーな書きぶりがかえって違和感を増す。

なんていうんだろう。ああこれは字数増すために無理やり書いてるな、って部分とか、なんとなくわかってしまう。本人の経験とか、肌身感覚とか、そういうのがまったく伝わってこないもの。キュレーションとはそういうものなのだとしても、じゃあ「♡」とか「いかがでしたか?」ってニコニコと語りかけてくるのは一体何なんだって、逆に混乱する。裁判の陳述書のごとくただずらずらと書き連ねているわけではない、「顔」を見せているような書きぶりなのに、なんだか「顔」が見えない感覚。
私も似たようなWebライティングをちょっとしたことがあるぶん、よけいにわかってしまう気がする。

それなら、文体が洗練されてなかろうがちょっと脱線してようが、「顔が見える」文章のほうがずっといい。




デザインの話から文章の話に飛びましたが。
どちらも私にとっては大切なものだし、
だからこそそのどちらにおいても、「顔が見える」人でありたいなと思う。





……だからといってこの画像は単に良くないダサい例だろうけど。

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でもこれはこれで懐かしいよね。ワードアート文化。






そんなことを思いました。


今日はこのくらい。


◯今日の過去記事◯
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