ザザイズム

書くことは命の洗濯。日常で考えたことや国内外旅行記などつづっています。

他人に興味があるけどない話

以前、根本的には人に興味がないでしょうと言われたことがある。そうだろうと思った。

内向型の極みすぎて、自分の内面ばかりにベクトルが向かう。でなけりゃこんな自分語りブログやっていない。

他の人の感覚感情があまり響かない。共感性羞恥なんかもわからなくはないけれどそこまで苛烈なものではない。

一時期HSPかと疑ったことはあるけれど、他人の感情がそこまで自分ごとにならない点で当てはまらないなと思った。うるさい場所とかが苦手なのは確かだけれど、そこまで感覚過敏というほどではない。


ただ、他人にまったく興味ないというのも違う。




最低限の社会性みたいなものはさすがにある。サイコパス気質ではまるでない。自分にされて嫌なことを他人にしたらどうなるか?の想像くらいはできるし、つらい話を聞いてつらかったねとおしゃべりすることは普通にある。

ほんとうに心底人に興味なければ人を誘わないし、VRChatにもハマらないだろう。VRChatなんて他人のお話の塊たる場だ。あまり周囲にいない不思議なバックグラウンドを持っている人がけっこういて、そういう人がどうしてそういう人生を歩んでいるのかはいつも聞きたくなる。



ただ、それはある意味小説や漫画に出てくるキャラクターを見るような感覚に近いのかもしれない。その人の苦しみとか恥ずかしさを心底同調しきることはできない。

共感はしても同情はしない、といってもいい。そもそも同情したところで、人の感情と自分が想像するその人の感情が同じということはありえない。




もし、ある人がどう見ても修羅の道を駆けようとするとしても、止めようと説得する義理はない。その人がそう自分の意思で決めたことなら、そこを変える権利も義務も義理もない。

もしその人が自分の意思に迷いがあって、私に助言なり何かできることがあって、その人からそうしてほしいとオファーがあるのなら、するだろう。

けれど、その人の意志をねじ変えてまでどこかに向かってほしいと諭すことはない。自分がどう感じたかくらいは伝えるかもしれないが、それはあくまでも自分の感情であって、それをもって相手に心を変えるように迫るものではない。



そんな線引きした態度を100%貫いているかというと怪しいけれど。アドバイス罪くらいは幾度となく踏み抜いているだろう。とはいえ家族とか近い関係の人に対しても、基本的にはその人の自由でいればいいじゃないスタンスでいるように思う。他人という存在に敬意は払うけれど、だからこそ過度の干渉はしない、ともいえるか。

逆に言えば他人に対して感情ぶつけてどうにか曲げようとするのは得策ではない、と肝に銘じないといけない。



そんなことをここ最近考えていたので、簡単にメモしてみた次第。


今日はこのくらい。






◯今日の過去記事◯

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