トルコから帰ったとき思ったこと。日本は静かで、うるさい国だなと。
街の平均的な静けさでいえば日本のほうがダントツ上だろう。クラクションは少ないし、モスクのアザーンもなければストリートミュージシャンも少ない。バスに電車に所構わず響く通話の声もない。選挙カーと宣伝トラックさえ除けば日本はたいてい静かだ。
それでいて、日本は意味のうるささに溢れている。どこもかしこも過剰な看板や注意書きが氾濫している。
例えばトルコから帰国した際の検疫・入国審査。あらんばかりの掲示物に溢れていた。パワポかなにかで作ってラミネートしたのであろう急ごしらえの手作り案内ポップがそこいら中に貼られていた。日本らしいと思った。トルコなら白黒の印刷文少しで済ませそうなところが、あらんばかりの色と文字に溢れている。
マンションのゴミ収集所の注意書きを数えたら7種類も貼り出されていた。ゴミ出しするたびに7種類の色もフォントもバラバラな注意書きが目に訴えかけてくる。
賃貸の部屋のあちこちにある注意書きシールもうるさい。剥がしたくても剥がせないのが嫌になる。歯を磨くたびに「コンセントから異臭がしたら使用を中止してください」という当たり前やろとしか言いようのない注意書きが大量に目に入るの、無為だなぁと思う。
もちろん必要な注意書きもあるだろうけれど、ここまでするか?というものや、古いものをそのまま延々と継承しているようなものが多そう。
この手の注意書き、目立たせようと競うように赤黄黒の強い色と極太フォントばかりになりがち。特に後付けで手作りで作られたもの。冷静になって眺めると、かなりうるさい。
トルコではこんなに注意書きを見た記憶がない。オランダはじめヨーロッパでもここまで多くはなかったように思う。地下鉄や公共交通機関の注意書きも必要十分な量だったように思う。
でも、これは第一言語でないがゆえのバイアスかもしれない。
トルコ語の注意書きの意味はわからないから、見たところで脳からすぐに消えて印象に残らない。思ったより注意書きを少なく見積もっている可能性は十二分にある。台湾や中国は文字にあふれている印象だったのだけど、きっと漢字を中途半端に読めるぶん目に引っかかりやすいのだろう。
文字が意味を持たない世界へのあこがれ
わたしはそこそこ文字に敏感なほうなのかもしれない。活字中毒のきらいがある。小さい頃から、そこに文字があると読んでしまう。電話機や電子レンジの取扱説明書とか無駄に読みまくるような子供だった。
海外旅行は強制的に活字オフにできる貴重な機会なのだろう。たとえ看板や広告に満ちた町中だったとしても、読めないのだから。
町中から大半の意味を取り除けるのはとても快適でワクワクできることだ。広告を見ていったいこれはなんの広告だろうと、写っているモデルから想像したり。店の看板を遠目で見てなんの店かと思っては近づいて答え合わせをしたり。否が応でも強制的に脳みそに意味を押し込まれる世界ではない、推測に満ちた未知の世界を歩き回れる。
英語とかの読める外国語だとしても、日本語に囲まれるより遥かに快適だ。読むこともできれば、景色として見流すこともできるから。
だからこそ日本語が第一言語じゃない人から見た日本がどう見えるのか、すごく気になる。この意味に溢れた日本から意味を差っ引いた世界がどう見えるのか。
あるトルコ人の日本旅行記を読んでみたら、ネオン街に何度も言及されていた*1。
私にとってネオン街は色と光と意味と主張とに溢れた、ときには下品でうるさい世界なのだけど。その人にとってはきっと色と光とまるで意味不明な言語の塊の異世界に見えるんだろう。サイバーパンクの世界。その感覚はわたしにはきっと一生わからない感覚。想像はできても、根本的にはわかりようのない見え方。それがうらやましく思う。
今日はこのくらい。
◯今日の過去記事◯
*1:こちらのブログ: JAPONYA | OitheBlog 。トルコ語ブログだけど機械翻訳でも興味深く読めた。