ここ最近も相変わらずVRChatに魂を取られている。普段はなかなかないような偶然の出会いにワクワクさせられる日々。ほんの数年前まで、こんな世界が広がっているだなんて想像もしなかった。
そんなVRの世界を40年前もから考案し、創造した人がいた。それが本書『万物創生をはじめよう:私的VR事始』筆者のジャロン・ラニアー。今から40年以上前にVR機器を考案し、VR技術開発・販売をするVPLリサーチという企業を立ち上げた「VRの父」である。
当時はまだインターネットも形になっていない、今からすれば遥かに貧弱なコンピュータしかない時代。そんな頃にVRを発想した彼の鬼才ぶりといったらとんでもなかった。それでいて、彼の語るVRの魅力はVR世界に日々浸る身にとって首がもげるほどうなずけるものばかりだった。
- 「ここではないどこか」を体現するデバイス
- VR体験の核は「誰かと共有できること」
- 自身の本質をさらけ出す
- 人間の感覚を拡張し、当たり前を当たり前でなくする
- VR = -AI(VRはAIの正反対)
- VR世界の住人にも、そうでなくてもおすすめ
「ここではないどこか」を体現するデバイス
ラニアーの経歴はとてもユニークだ。ドームハウスを設計して父とともに建築する。高校を抜け出て大学に潜り込み、しれっと正規学生になる。ヤギを飼いヤギミルクを売って学費を稼ぐ。放浪の旅の中、VRの構想について講演し、エンジニア職を転々とする。今では想像の付かないほどの歩みの自由さに、ヒッピームーブメント華やかりし時代の情景が浮かぶ。
そんな彼がVRを着想した原点にあったのは「夢を分かち合いたい」という願望だった。
筆者は小さい頃の自分を「極端な夢想家」だったのたと語られる。ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』の絵に心打たれ、入り込む。
彼は現実世界も、絵と同じように同じ驚きに満ちた目で見つめる。
魔法に満ちた世界の中で、見て・聞いて・感じたものを表現する手段がないことに気づき、渇望する。
私は熱烈な夢を見るたちだった。気がつくと、自分が山麓を転がり落ちている雲になりきっていたり、山麓そのものになって、何世紀もかけて自分の肌の上に広がっていく村の、農夫たちの営みにくすぐられ、大聖堂の重みが自分の肉にくいこむのを感じたりしていた。
私は描写不可能な奇妙なものを夢見た。人と分かちあう世界、ほかの人たちがいる外の世界は、のろのろ、だらんとして、柔軟性のないものに感じられた。私はほかの人の頭の中に何があるか見たくてたまらなかったし、自分が夢の中で探求したものを見せたかった。
人々がお互いに驚きを持ち寄るので、決して新鮮味を失わないバーチャル世界を想像した。私はその道具をもっていないことで、身動きもままならない気持ちになっていた。ああ、それがすでに普及していないなんてなぜだろう。
ラニアーの願望には親近感を覚える。小さい頃、私も妄想癖があった。狭い路地裏にこの世と少しずれた世界を見いだし、「ここ」に「ここじゃない何か」を発見するのが大好きだった。
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今でもこの願望は尾を引いていて、それが私をVRに惹きつける大きなひとつの要因になっている。
ラニアーが願望を願望に留めず、願望を実現するデバイスをVRを発案したのは鬼才としか言いようがない。
VR体験の核は「誰かと共有できること」
VRの核になるのが他者との共有をともなうコミュニケーションだ。
VRを明晰夢やLSDの幻覚と比較して「誰かと共有できる」ことが大きな特長である。
明晰夢やLSDはその夢や幻覚に浸っている本人しかその世界を体感できない。他者に言葉で伝えたとしても、その夢や幻覚そのものとはまったく別物になってしまう。しかし、VRは同じ世界を誰かと共有できる。技術を学べば、自分の脳内だけにある世界をアウトプットして中に入り込み、他者に共有し、ともに体験できるのである。
この共有性こそがVRの核だとラニアーは考える。
VRという概念にはつねに、心をわくわくさせる小さなコアがある。私たち自身の制御のもとに、思いのままの体験を、会話をするようにほかの人たちと分かちあうこと。明晰夢を共にすること。物質性の退屈な持続の外にある道。私たちが求めるもの――それは、この世界で自分に与えられた環境にだけ縛りつけられるのではない存在の仕方だ。
単に360°映像を見るだけのようなコンテンツはVRの本質的な使い方ではない。
働きかけ、反応し合う相互作用=インタラクションこそが「人生」の体現なのだと語る。
アバターの中の人間存在の生々しさは、私がVRで経験した最も劇的な感覚だ。インタラクティビティは、VRの特徴や性質であるだけでなく、その経験の中心にある自然で経験的なプロセスである。それは私たちが人生を知る仕方である。それは人生だ。
アバターの「そこに生身の人がいる」という生々しさは、VRChatをやっている身からすればあまりにも深くうなずける。単なるディスプレイに映されたアバターの映像には見えない。たとえそれが棒人間のようなシンプルなアバターであっても、人間の形ですらなくても、そこに生身の人間として立ち現れてくるのである。
そしてVRSNSがこれだけ多くの人を引き付けるのも理解できる。VRChatに浸っているとまさに「人生」を感じる。現実の人間関係さながらの情もあれば対立もある。それらは生々しい他者のいるVRSNS特有の感覚だと思う。一人でやるゲームや360°映像コンテンツでは毎日何時間もハマる人をこれだけ多く生み出せないだろう。
自身の本質をさらけ出す
VRでは、自分を形作っている要素を自由にはぎ取れる。物理世界の私を形作る要素といえば20代、女性、平均身長、会社勤めのエンジニア、東京住み、といった感じだろうか。VRなら自分の暮らす環境は少しの操作で海にも森にも豪邸にも変えられるし、見た目もいくらでも変えられる。最近は性能の良いボイスチェンジャーも出てきている。ロールプレイングとして人格や振る舞いを作り込む人もいる。
VRChatユーザーを見渡せば女性の姿が心地よい男性、男性の姿が心地よい女性はたくさんいる。人外のメカメカしい姿やケモノの姿が心地よいと感じる人もいる。
それらの心地よさや感覚は完全に自分のための経験である。他の誰かが代行しようのない、自分だけの感覚。そこに自分の本質が立ち現れてくるのだと。
誰でも、肉体を変える体験をたくさんすると、やがて非常に強烈な効果を感じはじめる。それは自分の周りのすべての物や自分のいる世界が変化しても、自分自身は相変わらずそこにいるという気づきだ。
(略)
VRにおいても、経験のすべての要素をひとつひとつ取り去ることになる。実際にいる部屋を取り去り、その代わりにシアトルをもってくる。自分の体を取り去り、巨人の体をもってくる。しかしすべての要素がなくなっても、自分は相変わらずそこにいて、残っているものを経験している。
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経験をする自分の芯は、体が変化し、世界のほかの部分がすべて変化しても残っている。VRは果物の皮をむくように、現象をはぎとっていき、意識が残ること、そしてそれが本物(リアル)であることを明らかにする。VRはあなたをあなた自身にさらけだすテクノロジーなのだ。
「自分のなりたい姿になれる」として、何になるか?もそうだけど、ありとあらゆるアバターを取っ替えひっかえして、環境も取っ替えて、それでも自分に「何か」が残るとしたら、それが自分の本質なのではないか。哲学的でとても好きな主張のひとつ。
面白いのが、何人かがまったく同じアバターを使っているときでさえ、その人となりがにじみ出ることがある。声出さない時でさえなんとなくそういう雰囲気を感じ取れることもある。それはその人の「本質」が何らかの形で伝わってくるからだろう。
VRSNSでは現実さながらの生々しい人間関係があるのは、そういった個々の人間の本質がストレートに浮かび上がるからかもしれない。
人間の感覚を拡張し、当たり前を当たり前でなくする
VRは人間の感覚の新境地をいとも簡単に拓いていく。
ロブスターのアバターを着込めば、ロブスターになることをすんなりと学ぶ。VRで操作できるしっぽを与えられたらその感覚もあっという間に身につくという実験も紹介されている。
VRChatでも「VR感覚」という単語でよく語られる事例を思わせる。VRの身体を触られたときに実際に触られたように感じることで、人によっては猫耳など物理現実の身体にない部分にも感覚が「生える」のだとか。
そして拡張した感覚はVRだけに閉じず、現実の物理世界にもフィードバックされる。
面白いのが、VRヘッドセットを外した瞬間こそがVR体験の最高の魔法だという話。VR体験の参加者のそばにこっそりと花を置くと、VRを終えた参加者は生まれて初めて見たかのように花を見つめる。ただの木材や土に無限の世界が立ち現れる。今まで当たり前だと思っていたものが、当たり前でなくなる瞬間が訪れる。
誰しも人生の根本にあるさまざまな経験や自分の世界に慣れ、それらを当然のものとみなしている。だが、いったんバーチャル世界に適応したあとで戻ってくると、いわば生まれ直したような感じがする。ほんの短い間、安っぽい木材やただの土の平凡な表面が、無限の細かさをもち、きらきら輝いているように見える。そんなとき、ほかの人の目を覗きこむのは、強烈すぎる体験だ。
VRは気づきの体験だったし、今でもそうだ。そして新たに立ち現れるのは、外側の世界だけではない。何もかもが変化しても自分自身が相変わらず真ん中にいて、何であれ存在しているものを体験しているということに気づく瞬間がやってくる。
花や木材、土、というチョイスがすごく納得いく。だいたいVR外した瞬間は現実に戻されちまったスン……とした感覚になる。部屋の狭さ、天井の低さ、開放感のなさが目立つ。VRだったら数値を少しいじれば手に入るものが、現実ではままならない。
一方で、有機的なものの繊細さ、ともすれば生の「オーラ」は現実世界特有なものだ。いくら高解像度の自然映像を観た後でさえ、机の上の一輪の花には敵わない。そう思う。VRは直線的・人工的なものは得意だけれど、有機的で繊細な造形や「オーラ」は現実特有のもので。それに気付かされるというのはブンブンうなずいて同意したくなった。
VR = -AI(VRはAIの正反対)
『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』という本を著しているくらいに昨今のビッグテック支配・SNSに反対の立場を取っているラニアー。彼はVRの危うさにも気づいている。
VRは広告や洗脳のデバイスとしてはとても優秀である。
巧妙に作り込まれたアルゴリズムで、自由意志で選んでいるとおもっているのが選ばされている――こういった状況をラニアーは実験動物の入る箱にたとえて「スキナー箱に閉じ込められる」と表現する。これはまさにいま主流のSNSで起きていることだろう。レコメンドシステムにガチガチに塗り上げられ、自分の意思で作り上げたタイムラインを破壊していく方向性。
そして彼はVRはAIの真逆であるとも主張する。VRは人間主体であくまでもテクノロジーは人間を助け拡張する立場である。AIは人間を乗っ取って上回ることを目的としつつある。いつかは巧妙なAIを組み込んだVRセックスが現実を超えるのでは?という主張に対してラニアーはこう答える。
「その考えは間違っている。 大事なのは、アルゴリズムが人間に何をしてくれるかじゃない。人間が自分の精神を拡張できるかどうかなんだ。 結局、コンピュータはぼくらがそうするのを手助けするだけだ。それ以外のことは何もしない。
セックスを自分の側で改善できるものだと考えてみようよ。そうすれば、もうひとりの人間と繋がるだけじゃなくて、自分自身、いきいきと生き、成長し、変化していける。
アルゴリズムによってループに閉じこめられるのではなく。なんらかのデバイスがきみのために、完璧なセックス体験を算出してくれると言うけど、そうなったときに実際に起こっているのは、きみがスキナー箱の中で、完璧に訓練されたってことなんだ。実験室のラットになるなよ」
彼は VR = -AI という式で、VRはAIの正反対だと主張する。AIやシンギュラリティを信望する人々に対し、人間中心のアプローチを形成する技術としてVRを対置する。
ふと、Metaが先日開催した新製品発表イベントMeta Connectを思い出した。
MetaがアピールしたがっているのはVRよりもAIだという雰囲気を感じ取った。メタバースという単語はプレゼンで一度も登場せずじまいで、VRもAIとの融合を匂わせている。お金になるのも圧倒的にAIなんだろう。レコメンドやパーソナライゼーションと称して選択肢を奪うのとの相性がいいのもAI。そういう流れにもなるよなぁと思った。
テクノロジーが勃興してから悪しきに流れていく方向を止められた試しを見たことがない。本ではそのことについても触れられている。インターネットの前にもともとすべての情報の出処が追えるタイプのネットワークが考案されていたが、その「重力」にともなう不自由さから、自由だか無責任なインターネットの構造が一般的になったのだと。
SNSにインフルエンサーと炎上があふれる最中、VRChatは比較的ひと昔前のインターネットの雰囲気が残っていると思う。要因として、参入障壁の高さやマネタイズのしづらさがよく挙げられる。ひとつ言えるのは顔の見えない人に暴言を吐くのと、生身の人間だと感じられる人に暴言を吐くのとなら後者のほうが難しいこと。
AIは究極的に顔の見えない世界だ。AIの学習元になった幾多の画像や絵は換骨奪胎されている。その意味でVRとAIは本質的には正反対なのだろう。
VR世界の住人にも、そうでなくてもおすすめ
VRChatに本格的に浸かりだして1年足らずだけれど、共感できる箇所があまりにも多かった。
私が感じてきたVRの強みは既に40年前に見出されていた。改めて、新鮮な驚きを覚えた。今のVRの原型はだいたい40年前にはほぼ出来上がっている。VR世界の住人は彼に足を向けて寝られないと思う。
もっとVRChatter含めVRに親しんでいる人にはぜひ読んでみてほしいと思った。共感してやまない箇所がたくさんありすぎてここでは紹介しきれないくらいだった。
VRに親しみがない人にもぜひおすすめしたい。彼の自叙伝としても一大スペクタクル級の面白さだし、AIについての議論も今こそ身にしみる。
今日はこのくらい。
◯今日の過去記事◯