SNSのアカウントを全て削除してから1ヶ月が経った。
良いことばかりだった。やめた直後は「本当にやめられるのか……」「アカウント復元したくなりそう……」と不安しかなかったけれど。今のところ、戻りたいとはまったく思えない。やめるメリットは圧倒的に多くて、明らかに幸福度が上がった。
「やめたいけれど、なかなかやめられない」と思うのは当たり前のことだ思うけれど。そんな人のために、私の実体験が参考になれば幸いです。
SNSをやめて良かったこと
時間に余裕ができた
圧倒的に時間ができた。
これまでどれほどの時間をSNSに使っていたのか驚くほど、ぽかんと空いた時間が生まれた。スマホのスクリーンタイム機能でアプリの使用時間をチェックしてみると、ゾッとするほど時間を費やしていたことがわかる。それが丸ごと浮くのだから、時間が半端なく増えるわけで。ネットをダラダラ徘徊する時間も減った。SNSチェックついでにあれこれ見て回るのがいつもの習慣だったから、それがなくなった。
「いつかやってみたい」ままだったことを気軽にできるようになった
時間ができると、やってみたかったけれど先延ばしにしていたことを容赦なくできるようになった。
「いつかやってみたい」と思っていることはたくさんあった。でも、そんなささやかな気持ちは今までスマホとSNSに食われていた。シリコンバレーの天才たちが人間の本能をあらゆる方法でハックして作り上げた仕組みと、「いつかやってみよう、いつか」と繰り返すばかりの情けない私の気持ちが戦うのである。そりゃもう、一発KO負けばかり。そんなことを繰り返していたら、そもそも「やってみたい」と思っていたこと自体を忘れてしまいつつあった。SNSをなかなかやめられなかった理由の一つが、「時間ができたからといって、代わりにやってみたいことなんてあるだろうか」という不安だった。
でも、杞憂だった。戦う相手がいなくなった途端、「いつかやってみたい」が本気を出し始めた。ぽかんと空いた時間を埋めてやろうじゃないか、と。本を読む、勉強したいことを勉強する、バイクで出かける、運動を習慣化する、瞑想を習慣化する、凝った料理を作る、新しいVRゲームを楽しむ。ひとつひとつは大それたことではないかもしれないけれど、はっきりと幸福度が上がった。「新しい良い情報ないかな〜」と運任せにスワイプ更新を繰り返すよりも、確実に幸せになれる方向に時間を使えるようになった。
気持ちに余裕ができた
ここ数年、性格が悪くなったような気持ちがずっとしていた。イライラや落ち込みに対して敏感で悪化させがちだった。SNSを止めてからは、すっと憑き物が落ちたかのごとく気持ちに余裕ができた。ネガティブなことに対しても動じにくく、ずっと地に足が着いているような感覚がする。
これらは、瞑想した直後の感覚によく似ている。瞑想を習慣化しようとしていたのだけど、なかなか上手くいかなかった。終えて1時間もすれば頭がガチャガチャするような感覚があった。それが、SNSを止めてからはほぼ1日中、瞑想終えた直後みたいなすっきりした感覚が続きやすくなった。体調が悪いと逆戻りする感覚があるけれど、それでも以前よりはるかに頭がクリアになった。
睡眠の質が良くなった
寝る前のスマホ離れが楽にできるようになり、寝付きもよくなった。朝も起きやすくなり、体調が良くなった。
身体は精神の乗り物だと思う。体調が良いと、ますます時間の使い方が上手くなる。時間の使い方が上手くなると、寝る前はリラックスに専念できるようになり、さらに睡眠の質が良くなる。そんな良いループに入れる。今はさらにスマホ離れを徹底したくて、寝室に目覚まし時計を買おうかと検討中。
「フロー状態」の中に居続けることが楽しみになった
「フロー状態」というのは「時間も我も忘れ、何かに完全に集中している状態」のこと。この状態に入ると人はワクワクして有意義かつ幸せな時間を過ごせるというもの。
詳しい説明はこちらの記事に譲ります。
SNSは「フロー状態」とは真逆の要素で成り立っている。色々な人の色々な投稿、通知、更新情報、トレンド、広告、誰かの「いいね」、返信、レコメンド、メッセージ。ぐるぐるとあちらこちらにひたすら気を散らし続け、アプリの滞在時間を上げるべく周到に作り上げられた空間。
人は新しい情報をぐるぐると求めることに快感を覚える。本能的なものだろう。太古の人類は、あちこちに気を散らして新しい情報を求め続けたほうが生き残りやすかったのかもしれない。SNSはそんな人間の本能をガッチリと掴んで話さない。
しかも、運ばれてくる情報は玉石混交。だからこそ、「次こそはもっといい情報があるかもしれない」と、情報ガチャを引くがごとくスマホをつい手に取ってしまう。
一方で、人は「フロー状態」に入って集中しきることにも喜びを覚える。矛盾しているような気もするけれど。もしかすると、太古の時代は狩りに集中しきれる人類のほうが生き残りやすかった名残かもしれない。
私の体感では、ダラダラと新しい情報を求め続けるより、「フロー状態」の中に居続けるほうが、ずっと幸せに感じる。
おそらく、気が散った状態は基本的に危機回避のためであって、基本的にはストレスと緊張のもとなのだろうと思う。逆に「フロー状態」に入ることは、何かを達成するための過程であり、むしろ幸福感とリラックスに結びつきやすいんじゃないか。
SNSを離れることで、「フロー状態」に近づく時間が増えた。本を読む、文章を書く、難しい料理に挑戦する、難しいゲームに挑戦する、時間を決めて仕事に集中する、などなど。「今この一瞬に集中するべき」という言葉を最近よく聴く。マインドフルネスとかアドラー心理学とか最近の自己啓発系でよく出てくる話。それくらい、集中とは人の幸福と直結している本質なんだろうと身をもって実感している。SNSはある面で人の快楽を刺激してはくれるけれど、幸せとは結びつかないのかもしれない。
さみしさとの付き合い方が上手くなった
SNSやめて1週間くらいした頃、さみしさを感じている自分に気付いた。でも、さみしさと上手く付き合えている。SNSをしていたときのほうがむしろさみしかった。
SNSのさみしさには「渇望感」があった。さみしさは埋められるべきだし、埋められるであろうものだった。SNSに投稿したら、誰かが見てくれるかもしれない、と。埋められなくてはいけないけれど、埋まりきらないもどかしさを無意識に抱えていたように思う。
けれど、今のさみしさはただの「空白」でしかない。何するでもない一人きりの時間がただ中空に浮いている。埋めたってよいし、埋めなくたってよい。ただそこにある「空白」を客観的に観察できるようになってきた。
さみしさを埋める方法はいくらでもある。手っ取り早いのはなにかに夢中になって「フロー状態」に入ること。本や料理や思考に没頭している間にさみしさを感じる余裕はない。
一方で、さみしさをただそこにある「空白」としてだけ受け取ることもできる。埋めなくたって良い、と。観察するかのように、放っておくこともできる。ましてやSNSに走って埋めようとする必要はない。
SNSをやめる前は、「コロナ禍でただでさえ現実世界の交友が薄まっているのに、さらにSNS関係まで断ってしまって良いのだろうか?」と不安だったけど。私の場合、さみしさはゼロじゃないけど、むしろそもそもさみしさが問題にならなくなった。SNSをやめたことで得られた意外な発見だった。
思い出との付き合い方を考える良い機会になる
「私が死んでも、もうSNSに人生の痕跡は残らないんだな」と、アカウントを削除した時に思った。アーカイブはダウンロードしたけれど、インターネットに公開されていない以上、死んでも見られる確率は低いだろう。
でも、別に痕跡をすべて残す必然性はない。過去の投稿は過去でしかない。その時、その瞬間に役目を終えた記録でしかない。けっきょく人生の末に残るのはわずかな強い思い出だけで、つらつらとしたSNSの投稿の数々ではない。思い出は心に残るぶんで十分だな、と改めて思うようになった。
SNSやめたら自分の人生が戻ってきた
今まで、「SNS離れ」自体は何度もしてきた。アプリを削除し、ブラウザからログアウトし、パスワードをわかりにくくして鍵付きメモ帳に置き。それでも、いつの間にか戻っていた。とんでもない引力。こんな私がSNSをやめられるのか不安だった。
杞憂だった。SNSをやめたメリットはあまりにも大きかった。憑き物がころっと落ちたかのように人生が楽になった。
SNSをやめたことで出会えなくなった情報はあるだろうけれど。それでも、自分の人生が手元に戻ってきたような安心感と幸福感には代えがたい。
でも、「二度とSNSをやらない」とは言い切れない。1ヶ月前のSNS浸りの私と、いまの私。考えていることはまるで別物だ。それと同じく、将来の私もSNSをやめ続けているだろうという確信は持てない。情報収集したり、身の回りには少ない共通点を持つ人とつながったりするには、とても良いツールだから。たとえこの先考えが変わったとしてもそれはそれで良いだろう。SNSのない晴れ晴れとした気持ちを一度は体験できただけでも、やめてみる価値はあったと思う。
ただ、いま現在の私はSNSに戻りたくない。戻っても仕方ないと思っている。少なくとも「自分の時間をしっかり自分で充実させられて、現実世界の社交が充実していて、SNSと『ほどほど』の距離を取り続けられる程度に精神が健全である」という条件を満たすまでは。
SNSをやめようか迷っている方の参考になれば幸いです。
今日はこのくらい。
◯今日の過去記事◯
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